春来たりて草自ずから生ず
「兀」は、じっとして動かない様子。諸々のはからいを捨て去って、ひたすらに坐禅に励めば、春に自然に草木が芽吹くように、必ず悟りを開くことができるという意味です。
本堂の裏庭に、今年も芝桜やスズランの一種でしょうか、可憐な花々が咲き始めました。
下は日吉ダムによって出来た、天若湖(あまわかこ)です。
遠山の広葉樹の若葉と針葉樹の濃い緑が、みごとなコントラストを描いていました。
本堂の裏庭に、今年も芝桜やスズランの一種でしょうか、可憐な花々が咲き始めました。
下は日吉ダムによって出来た、天若湖(あまわかこ)です。
遠山の広葉樹の若葉と針葉樹の濃い緑が、みごとなコントラストを描いていました。
今回は、京都両丹教区の第5部のご寺院の協力をいただき柏原で行ないました。事前に案内を配布していただいたおかげで、多くの浄財をいただくことができました。
この浄財は、大本山妙心寺の「おかげさま献金」に送らせていただき、災害等の義援金として国の内外に寄付させていただきます。
托鉢の眼目は、「三輪空寂(さんりんくうじゃく)」です。浄財を施す人(施者=せしゃ、能施とも)と、それを受ける人(受者=じゅしゃ、所施とも)、そして施されるもの(施物=せもつ)の3つが、空(くう)であり、清浄(しょうじょう)であることが大切です。
「私がこれを誰それに布施するのだ」という思いがあるうちは、布施された浄財は、我執(がしゅう)にまみれた不浄のものでしかない。さらりと渡してさらりと去り、何の思いも残さないというのが最上の布施であるとされます。
托鉢は、一軒一軒の玄関で『四弘誓願(しぐせいがん)』を読む、軒鉢(けんぱつ)の形式で行ないました。
小さいお子さんから、お年寄りまで、多くの方にご喜捨いただきました。
柏原の皆さん、本当に有難うございました。 合掌 m(_ _)m
以前のブログで、”無財の七施”から「身施(しんせ)」を取り上げました。
その後、大阪のNHKテレビで、難病の患者を世話する家族のために、非常に安価で宿泊できる部屋を提供する、「京都サポートハウス」の活動がレポートされました。
この活動は、まさに”無財の七施”の「房舎施(ぼうしゃせ)」に当たると思いますので、紹介させていただきます。
”無財の七施”とは、お金にはかえられない七つの菩薩行(ぼさつぎょう)のことをいいます。
①身施(しんせ)=身体による奉仕をすること。
②心施(しんせ)=人や他の存在に、感謝の心で接すること。
③眼施(げんせ)=やさしいまなざし。
④和顔施(わげんせ)=おだやかで柔和な笑顔で人に接すること。
⑤言辞施(ごんじせ)=思いやりのこもった温かい言葉をかけること。
⑥床座施(しょうざせ)=自分の席をゆずること。
⑦房舎施(ぼうしゃせ)=我が家を一夜の宿に貸すこと。
転じて、温かいおもてなし。
7番目が、房舎施(ぼうしゃせ)です。
「京都サポートハウス」は、難病のお子さんを幼くして亡くされた方が主催される活動です。ご自身の経験から、企画されたとテレビは伝えていました。
その内容は、京都大学病院の近くにアパートを用意し、入院されている患者の家族が、自炊して滞在できる部屋を提供するというもので、部屋の使用料は、日額で1000円。患者家族の経済的な負担を、大きく軽減してくれるシステムです。
しかし、部屋を用意するといっても、費用の掛かることです。一体、どのように会を運営しておられるのでしょうか。報道によれば、不要になった本やCDを無償で提供してもらい、それをネットオークションで販売、その収益で運営するということのようです。
我が家ではないものの、困っている人々に安価で宿を提供しようという試み。まさに、文字通りの房舎施であると言えます。
「京都サポートハウス」を利用させてほしい、あるいは、運営資金の一助に不要になった本やCDを提供したいと思われる方は、一度、下記にアクセスしてみてください。
京都サポートハウス http://blogs.yahoo.co.jp/ryhnk143
ところで、私は毎朝のお勤め(朝課)の後、門前の国道27号線のゴミを拾っていますが、一番多いゴミはタバコの吸い殻、次に空き缶です。車の窓から吸い殻や空き缶を投げ捨てる行為、これはなかなか減りませんね。
JTの公告に「あなたが気づけばマナーは変わる」というコピーがありますが、もっともな事だと思います。
歩行者も自動車も利用する道路です。たとえボランティアに参加出来なくとも、”ポイ捨てはしない”というマナー・ルールは守りたいものです。
先日、ある研修会で出合ったすばらしい言葉です。
放[ほう]るは投げること、小法師[こぼし]は起き上がり小法師で、七転び八起きのあのダルマさんのことです。
「投げられた…」と言う場合もありますが、私は、山田無文老師の表記を使わせていただきます。
ダルマの底には重りがあるため、どんなに倒しても自然に起き上がります。中国では倒れても倒れても起き上がるその姿から、不倒翁[ふとうおう]という名のおもちゃとして親しまれているそうです。
臨済宗を中興した江戸時代の白隠[はくいん]さんは、禅宗の初祖である達磨大師[だるまだいし]を起き上がり小法師にたとえられたので、ダルマは禅宗の象徴として世に知られることになりました。
さて、私たちは、どこで生れどこで学び、どこで働きどこに住み、どんな人と縁を結ぶか、その環境や境遇は一人ひとりみんな異なります。
「となりの芝生は青く見える」という言葉がありますね。人をうらやむことですが、人をうらやんでばかりの人生は何となく寂しい気がします。
みんな違う環境にいても、世界にただ一人の存在に変わりはありません。あなたも私も同じ、「大切ないのち」を生きています。みんな違っていて、みんな大切なのですから、他との比較に何の意味があるでしょう。
禅には、「随処[ずいしょ]に主[しゅ]と作[な]れば、立処[りっしょ]皆[みな]真[しん]なり」という言葉があります。(随処作主、立処皆真)。
どこに居[い]ようとも、周りに振り回されず、主人公としての主体性を自覚してゆくならば、その時その場に真実を見い出すことができる、という意味です。
主体性を持って何事も精一杯に励むこと、とも言えるでしょう。但し、マイペースを忘れないでくださいね。
人生、いろいろと挫[くじ]けることも多いですが、また起き上がればいいのです。ダルマさんのように「もいちど転んで、また起きる」でいきましょう。
誰しも心に、大なり小なり悩みを持って生きているのではないでしょうか。その悩みを抱えたままでは、心が病んだり身体に変調をきたすことがあるものです。どうにかしてその悩みを解決したいと思う時、「話すことは、放すこと」という言葉に出会いました。
「身心一如」という言葉が、『坐禅儀[ざぜんぎ]』という本に出てきます。これは、肉体と精神とは一体で、それぞれ別々のものではないという意味です。悩みを抱えたままでいると心が病んでくる。するとやがて身体も病んでしまう。これは経験のあるところでしょう。
悩みにはいろいろあると思いますが、心を落ち着かせることによって解決できるものもあると思います。ご本山の妙心寺には「生活信条」があり、その第一句に「一日一度は静かに坐って、身と呼吸と心を調えましょう」と記されています。
心がさまざまな雑事に追われ、「心ここにあらず」という状況に陥ってしまうと、悩みも自然、多くなります。せめて一日5分でもいい、身体と呼吸と心を調えることが必要になってきます。身体と心は一体です。呼吸も含めた身体が落ち着かなければ、心を落ち着かせることはできません。
信頼できる人に、自分の悩みを聞いてもらう。聞いてもらうことで、心が軽くなったという経験はありませんか?。
人に話すことは、自分の心を悩みから解き放すことになる。ですから、「話すことは、放すこと」と言えるのだと思います。
例えば悲しい時を思い出してください。泣くのを我慢していると、とても苦しいですが、思いきり泣くことによって、少し心が楽になったことがありませんか?。それに通じるのだと思います。
もし、悩みを打ち明ける相手が見つからないのであれば、仏さまに打ち明けてはどうでしょう。今日は10月8日。毎月8日は、お薬師さまの縁日です。お薬師さまは、人々の身体や心の病を癒すという「願[がん]」をたてられた仏さまです。お薬師さまなら、あなたの悩み苦しみを、そっと静かにひたすら聞いてくださいます。
自分ひとりで、悩みを抱えていては身体に毒です。理不尽なことは世の中にいっぱいありますし、悩みは尽きることがありません。
どうぞ、仏さまに悩みを打ち明けてください。悩み苦しみはお寺に置いて、心を軽くしてください。