いきいき羅漢クラブ #11

 10月26日の日曜日、第11回の「いきいき羅漢クラブ・写経の会」を行ないました。イス席希望の方も多くありましたので、全員がイスとテーブルでの写経となりました。

 写経はこの頃ブームになっています。その効用は、
   ①心を清浄[しょうじょう]にする。
   ②腦を活性化する。
   ③集中力・忍耐力をつける。
   ④字が上達する。
等と世間でいわれていますが、何より「心を落ち着ける」ことではないでしょうか。

 ところで、最近のテレビを視ていると、裸でドタバタする下品なバラエティー番組ばかりが横行しています。50年も前、大宅壮一氏が、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう、と批判されたことがいよいよ現実になってきたようです。

 この時代にあって、写経のように身体と心を一つに落ち着かせること、禅語では身心一如[しんじんいちにょ]といいますが、それが今ほど求められている時代はないと感じます。

 参加された皆さんは、馴れてきたこともあるのでしょう、一時間余りで全員写し終えました。最後に、各自で写した般若心経を、ゆっくり噛みしめるようにお唱えし閉会しました。
 心の平安を求める方、是非、一度ご参加ください。

カテゴリー: いきいき羅漢クラブ — 住職 10:38 AM  コメント (0)

身施 ~「無財の七施」から~

 先日、80名を超える檀家さんが境内の清掃奉仕をしてくださったことは、前回のブログに記しました。
 このように、身体を使った奉仕は身施[しんせ]といい、「無財の七施[むざいのしちせ]」という七つの善行・修行のひとつに挙げられています。
 無財というのは、「お金には代えられない尊い行ない」を意味します。「無償の奉仕」と言えば分かりやすいでしょうか。心がけや気持ちひとつで出来る善行と理解していただけばよいと思います。
 
 無財の七施とは、次の七つをいいます。
  ①身施(しんせ)
  ②心施(しんせ)
  ③眼施(げんせ)
  ④和顔施(わげんせ)
  ⑤言辞施(ごんじせ)
  ⑥床座施(しょうざせ)
  ⑦房舎施(ぼうしゃせ)
 
 身施は例えば、皆で使っている排水溝を共同で清掃することや、ボランティア活動に参加することがこれに当たります。
 
シュウメイギク

シュウメイギク

 ところで、私は毎朝のお勤め(朝課)の後、門前の国道27号線のゴミを拾っていますが、一番多いゴミはタバコの吸い殻、次に空き缶です。車の窓から吸い殻や空き缶を投げ捨てる行為、これはなかなか減りませんね。

 JTの公告に「あなたが気づけばマナーは変わる」というコピーがありますが、もっともな事だと思います。
 歩行者も自動車も利用する道路です。たとえボランティアに参加出来なくとも、”ポイ捨てはしない”というマナー・ルールは守りたいものです。

カテゴリー: 禅語あれこれ — 住職 2:55 PM  コメント (0)

清掃奉仕

 濃霧注意報が出た10月19日早朝、宝樹会30余名と女性部50名、総勢80余名による合同清掃奉仕が行なわれました。
 宝樹会と女性部には、毎年数回のご奉仕をいただいていますが、今回は11月2日のダルマ忌・羅漢まつり、また11日の綾部西国観音霊場巡拝をひかえてのご奉仕です。
本堂前で剪定する宝樹会の皆さん
本堂前で剪定する宝樹会の皆さん
大心字庭を清掃する宝樹会・女性部の皆さん
大心字庭を清掃する宝樹会・女性部の皆さん

 おかげさまで、境内が清々しくなりました。
 大勢のご来山をお待ちしています。

カテゴリー: 宝住寺の出来事 — 住職 8:02 PM  コメント (0)

放られたところで起きる小法師かな

 先日、ある研修会で出合ったすばらしい言葉です。
 放[ほう]るは投げること、小法師[こぼし]は起き上がり小法師で、七転び八起きのあのダルマさんのことです。
 「投げられた…」と言う場合もありますが、私は、山田無文老師の表記を使わせていただきます。

ダルマは達磨大師

 ダルマの底には重りがあるため、どんなに倒しても自然に起き上がります。中国では倒れても倒れても起き上がるその姿から、不倒翁[ふとうおう]という名のおもちゃとして親しまれているそうです。
 臨済宗を中興した江戸時代の白隠[はくいん]さんは、禅宗の初祖である達磨大師[だるまだいし]を起き上がり小法師にたとえられたので、ダルマは禅宗の象徴として世に知られることになりました。

みんなちがって、みんないい

 さて、私たちは、どこで生れどこで学び、どこで働きどこに住み、どんな人と縁を結ぶか、その環境や境遇は一人ひとりみんな異なります。
 「となりの芝生は青く見える」という言葉がありますね。人をうらやむことですが、人をうらやんでばかりの人生は何となく寂しい気がします。
 みんな違う環境にいても、世界にただ一人の存在に変わりはありません。あなたも私も同じ、「大切ないのち」を生きています。みんな違っていて、みんな大切なのですから、他との比較に何の意味があるでしょう。

もいちど転んで、また起きる

 禅には、「随処[ずいしょ]に主[しゅ]と作[な]れば、立処[りっしょ]皆[みな]真[しん]なり」という言葉があります。(随処作主、立処皆真)。
 どこに居[い]ようとも、周りに振り回されず、主人公としての主体性を自覚してゆくならば、その時その場に真実を見い出すことができる、という意味です。
 主体性を持って何事も精一杯に励むこと、とも言えるでしょう。但し、マイペースを忘れないでくださいね。
 人生、いろいろと挫[くじ]けることも多いですが、また起き上がればいいのです。ダルマさんのように「もいちど転んで、また起きる」でいきましょう。

カテゴリー: 禅語あれこれ — 住職 10:06 PM  コメント (0)

第10回・いきいき羅漢クラブ

 13日の午前7時から9時まで、第10回目の「いきいき羅漢クラブ」を行ないました。
 このクラブは、特に入会の条件も入会金もなく、興味のある会にご参加いただくという自由なシステムのクラブです。
 今回は、「座禅・講話・朝がゆの会」として行ない、講話のテーマは「開経偈[かいきょうげ]」というお経にしました。これは、お経を読む心得を示した聖句[しょうく]で、読経の初めにお唱えするものです。意訳した内容を下に記します。

  開経偈
   無上甚深微妙法 (この上もなく深き妙なる法[のり]は)
   百千万劫難遭遇 (永遠[とわ]を経るとも逢いがたし)
   我今見聞得受持 (我れ今聞き得て心に持[たも]てり)
   願解如来真実義 (願わくはみ仏の教えをさとらんことを)

野ぼたん
野ぼたん

百千万劫 [ひゃくせんまんごう]

 「劫[ごう]」というのは非常に長い時間の単位です。劫を説明するのには、いろいろのたとえ話があります。
 その一つが、「芥子劫[けしごう]」という話です。一由旬[いちゆじゅん]四方の立方体(城)といいますから、現在の14.4km四方の立方体となりますが、その立方体にあの小さな小さな芥子粒[けしつぶ]を満たし、百年に一度、ひと粒づつ取り出して、そのすべての芥子粒が無くなっても終わらないほどの時間を「一劫[いちごう]」といいます。
 その一劫が百千万集まった時間を、ここでは「百千万劫[ひゃくせんまんごう]」と言い、気の遠くなるほどの永遠の時間として表現しています。

仏法聞き難し [ぶっぽうききがたし]

 私たちは、自分の意思でこの時代のこの場所に、男性あるいは女性として存在することを選んで生れてきたのでしょうか?。そんな人は誰もいないでしょう。そもそも、人として今ここにいることが奇跡的なことなのです。
 そうだとすれば、人として生れ有り、仏教という教えに出逢うこと、これも奇跡的なことなのです。ですから、「永遠を経るとも逢いがたし」と言い、「仏法聞き難し」とも言われるのです。
 現代の日本は、ナゼか殺伐[さつばつ]としています。物質的に豊かになったのと反対に、心は荒[すさ]んできたように感じます。殺伐とした時代だからこそ、私たちは心の安らぎ(=安心[あんじん])を持ちたいものです。

 次回の「いきいき羅漢クラブ」は、羅漢山宝住寺のトップページでご案内しますので、どうぞチェックしてみてください。
 一期一会[いちごいちえ]の心でお待ちしています。

カテゴリー: いきいき羅漢クラブ — 住職 5:34 PM  コメント (0)

秋祭り

 キンモクセイの薫る10月12日、五穀の豊穣に感謝して秋祭りが行なわれました。宝住寺のある味方町には、笠原神社と斎[いつき]神社の二社があり、笠原神社の神輿[みこし]が町を練り歩きます。
 今年は旧町区と周辺地区の祭礼日が重なり、綾部市全体で秋祭りが行なわれることになったとか。何と賑やかで晴れがましいことでしょう。
 私も小学生の頃、「幟持[はたもち]」として参加したものです。「エーイサーア チョーイサー」と声を出しながら、神輿の露払いをするのです。高学年は錦の幟を持てるので、競って大きな幟を選んだことを思い出します。

笠原神社のお神輿
宝住寺前を通過する笠原神社のお神輿

神仏習合[しんぶつしゅうごう]

 明治の維新まで、日本には神仏習合という神仏融和の永い伝統がありました。ですから、神社のご神体が仏像であることも珍しくはありませんでした。それが、明治政府の方針で神仏分離の号令のもと、廃仏毀釈[はいぶつきしゃく]が行なわれたのです。仏教受難の出来事でした。
 私は、父の代から秋祭りのお神輿に「献酒」としてお供えさせていただくことにしています。寺も鎮守さまも、同じくこの町の人々の拠り所なのですから、お互い尊敬するべきとの思いからです。
 高齢化の波で神輿の担ぎ手がなく困っているという話も聞く昨今、味方町は団地が出来たおかげさまで若い世代が増えています。本当に有り難いことです。
 この祭りが、いつまでも受け継がれてゆくことを念願しています。

「はたもち」の子供たち
「はたもち」の子供たち
カテゴリー: つれづれ日記 — 住職 11:14 AM  コメント (0)

おかげさま

 神戸の祥福寺専門道場(僧堂)の師家[しけ=修行僧の指導者]であり、大本山妙心寺の管長や花園大学の学長を歴任された故・山田無文老師[やまだむもん ろうし]に、次の詩があります。

   父さん母さんのおかげです
   学校の先生のおかげです
   友だちみんなのおかげさま
   お米や野菜のおかげやら
   着物やお靴のおかげです
   社会ではたらく皆さまの
   お蔭さまです
   ありがとう

 私たちは時として、「オレが生きているのだ」と、ちょっと勘違いすることがあります。
 しかし、冷静に考えてみると、着るもの、食べるもの、住むところ、いわゆる衣・食・住のすべてを自分でまかなっている、という人はおそらくいません。服を縫ってくれる人、家を建ててくれる人がいて私たちは暮らせているにもかかわらず…。
 きれいにラッピングされた野菜や、小分けの袋に詰められたお米がスーパーの陳列棚に整然と並べられていては、その野菜を作ってくれた人の顔は見えてきません。八十八の手をかけて、丹精こめてお米を作ってくれた農家の苦労にまで思いは及ばないでしょう。
 何でもお店で手に入る便利な時代は、感謝の気持ちが薄らいできた時代です。
 誰か、何かのおかげで生かされていることに気付かず、「オレが生きている」と思いがちな現代です。
 「おかげさま」と感謝する心、手を合わせるこころ。無文老師が亡くなって20年目の今年、あらためて、その言葉の重みを感じます。

カテゴリー: つれづれ日記 — 住職 8:00 PM  コメント (0)

話すことは、放[はな]すこと

 誰しも心に、大なり小なり悩みを持って生きているのではないでしょうか。その悩みを抱えたままでは、心が病んだり身体に変調をきたすことがあるものです。どうにかしてその悩みを解決したいと思う時、「話すことは、放すこと」という言葉に出会いました。

身心一如[しんじんいちにょ]

 「身心一如」という言葉が、『坐禅儀[ざぜんぎ]』という本に出てきます。これは、肉体と精神とは一体で、それぞれ別々のものではないという意味です。悩みを抱えたままでいると心が病んでくる。するとやがて身体も病んでしまう。これは経験のあるところでしょう。

身[からだ]と呼吸と心を調[ととの]える

 悩みにはいろいろあると思いますが、心を落ち着かせることによって解決できるものもあると思います。ご本山の妙心寺には「生活信条」があり、その第一句に「一日一度は静かに坐って、身と呼吸と心を調えましょう」と記されています。
 心がさまざまな雑事に追われ、「心ここにあらず」という状況に陥ってしまうと、悩みも自然、多くなります。せめて一日5分でもいい、身体と呼吸と心を調えることが必要になってきます。身体と心は一体です。呼吸も含めた身体が落ち着かなければ、心を落ち着かせることはできません。

話すことは、放すこと

 信頼できる人に、自分の悩みを聞いてもらう。聞いてもらうことで、心が軽くなったという経験はありませんか?。
 人に話すことは、自分の心を悩みから解き放すことになる。ですから、「話すことは、放すこと」と言えるのだと思います。
 例えば悲しい時を思い出してください。泣くのを我慢していると、とても苦しいですが、思いきり泣くことによって、少し心が楽になったことがありませんか?。それに通じるのだと思います。

毎月8日はお薬師さまの縁日

 もし、悩みを打ち明ける相手が見つからないのであれば、仏さまに打ち明けてはどうでしょう。今日は10月8日。毎月8日は、お薬師さまの縁日です。お薬師さまは、人々の身体や心の病を癒すという「願[がん]」をたてられた仏さまです。お薬師さまなら、あなたの悩み苦しみを、そっと静かにひたすら聞いてくださいます。
 自分ひとりで、悩みを抱えていては身体に毒です。理不尽なことは世の中にいっぱいありますし、悩みは尽きることがありません。
 どうぞ、仏さまに悩みを打ち明けてください。悩み苦しみはお寺に置いて、心を軽くしてください。

カテゴリー: 禅語あれこれ — 住職 12:53 PM  コメント (0)

白隠禅師[はくいんぜんじ]について

  私が禅文化研究所で共に働いた先輩に、現在、花園大学国際禅学研究所の教授である芳澤勝弘先生がおられます。
 先生は、日本臨済宗の中興の祖と仰がれる白隠禅師について長年研究を積んで来られ、今回「ウェッジ選書」から、写真の『白隠禅師の不思議な世界』を出版されました。
 

衆生本来仏なり [しゅじょう ほんらい ほとけなり]

 「白隠さん」と聞いて、『白隠禅師坐禅和讃[はくいんぜんじ ざぜんわさん]』を思い出されることでしょう。白隠さん(1685~1768)は今から約300年前の方で、『坐禅和讃』の冒頭で、意訳すれば、「人はみな、本来は仏なのだ」と、言いきってくださっています。
 大まかに言うならば、誰にもお釈迦さまやダルマ大師と同じ仏の心、つまり”仏心”が備わっているが、それはさまざまな修行を通して磨いてこそ輝くものだ。そして、その”仏心”を実践してゆけば、今いるこの場所が極楽浄土にもなれば、お互いが煩悩から解き放たれた仏となれるのだ、と教えてくださっています。
 白隠さんはそのことを布教するために、ありとあらゆる方便(人を導く手段)を駆使しておられます。そのひとつが、おびただしい数の禅画です。芳澤先生はこの本の中で、それらの禅画に込められた白隠さんの教えや思想に肉薄しておられます。

メビウスの環

 たとえば、太っちょのあの布袋さんがニコッと笑って、「メビウスの環[わ]」を連想させる長い紙を広げている禅画があります。 メビウスの環って?、数学の世界のことではないか、と思われるでしょう。驚くなかれ、なんと白隠さんは、ドイツの数学者であり天文学者でもあったメビウス(1790~1868)が、この「環」を発見した約100年も前に、すでに禅画に画き禅の真理を示しておられるのです。
 「メビウスの環」についてご著書から引用します。
「(メビウスの環は)裏表のない曲面です。細長い紙テープには裏と表があるが、このテープを半回転させて糊付けすると、表が裏面につながり、裏面が表につながるようになる。つまり、裏も表もない面になります。(中略)、数学者でもない白隠に、どうしてこんな発想がでてきたのか。私は『メビウスの環』の特徴が、そのまま禅の基本的な認識と同じだったからではないかと思います。私たちの常識では、今見えている存在、現実の世界は、好き・嫌い、良い・悪い、存在・非存在などという二項対立であるように見える。けれどもそうではなくて、実は全てが同じであって、好き=嫌い、良い=悪い、存在=非存在、煩悩=菩提と見るのが仏教の、禅の見方です」。
 白隠さんの伝えたかったことが、科学的な目でズバリ解き明かされていると思います。

伝統と科学の交流と対話

  ご著書の後半には、地球惑星物理学や数理工学の先生方との対談がおさめられています。新幹線ホームの売店にある『Wedge』という冊子。この冊子を作る出版社の「地球学」という講座から始まった企画のようです。
 仏教という伝統宗教と、生命科学・宇宙科学という最先端の学問の交流・対話。21世紀にふさわしい学問が始まったように感じられ、非常に関心をもちましたので紹介させていただきました。

カテゴリー: つれづれ日記 — 住職 4:22 PM  コメント (0)

HPグランドオープン \(^o^)/

ついに、10月1日のHPグランドオープンの日を迎えました。
関係機関への「リンク依頼」もほぼ済み、後はお返事を待つだけです。
Google の検索にも、少しはヒットするようになりました。Yahoo は、まだまだですが…。
来訪者の皆さんのお力を得て、このHPを育ててゆきたいと思います。
どうぞ、よろしくお願いします。                住職 合掌

カテゴリー: つれづれ日記 — 住職 12:00 AM  コメント (0)